よかった~グアテマラ・プエルトケツァル1日目~ [寄港地]
グアテマラのプエルトケツァルは港の名前で、町の名前ではない。
オセアニック号は午前7時、このプエルトケツァルに入港した。
プエルトは港、ケツァルは緑の羽根が美しい、グアテマラの国鳥である。
そんな美しい名前の港の割に、景色は殺風景である。
港の反対側にカメラを向けると、なるほどケツァルのように美しい中米の景色が広がる。
船の前には、ずらりというほどでもないがバスが並ぶ。
ほとんどが、古都アンティグアと世界遺産のティカル遺跡に向かうツアーのバスだ。
港の近くには、サン・ホセという港町がある。
この港が選ばれたのは、首都のグアテマラシティまで比較的近いからだろう。とすれば、アンティグアへの便も良い。
とはいえ、私はグアテマラのツアーをキャンセルしていた。小学校での交流ツアーだが、正直交流疲れもあった上に、疲労度がかなり高くなっていた。
昼食を食べ終え、船内をぶらついていると、釣りをしている車いすの人と会った。ギリシャのアテネで同道した人だ。
釣りの餌のエビが欲しいのだが、介助者なしに町へいけないので、一緒に行かないかと誘ってくる。
どちらかというと、交通費は出してくれるという文言に引かれ、私は承諾した。
港の前にいたタクシーに乗り込むと、乗り合いタクシーだそうで、マーティン・ブラザーズと伊藤千尋さんが乗り込んできた。タクシーとはいえ6人から8人乗りの大きなものだ。車いすも簡単に収納してくれた。
かなり体格が良いマーティン・ブラザーズは、運転手さんをあわせて6名の車内ではかなりきつそうだ。
車窓からは、熱帯の緑に彩られた景色が見える。
確か、ピースボートの号外で書いた記事によれば、熱帯性暴風雨「アガタ」の影響で集中豪雨となり、洪水被害が出ていたとのこと。その少し前には、パカヤ火山の噴火もあり、まさに未曾有の災害となっていた。
パカヤ火山の位置は、プエルトケツァルの上、つまり、サン・ホセの町からも近いことになる。
ごちゃごちゃした町の中心部、公園になっているところにタクシーは止まった。
伊藤千尋さんは勝手知ったる様子でひょこっと降りる。
マーティン・ブラザーズに至っては、仕事道具であるジャグリングの道具などを一度確かめると、もっと人がいそうな場所を目指して歩いていってしまった。
マーティン・ブラザーズは寄港地で暇があれば大道芸をし、小銭を稼いでいるのだとか。
さらには、日本まで船で一緒に来て、日本中を大道芸をしながら渡り歩きたいと言っているそうだ。
伊藤千尋さんが、やや頼りない残った二人組(私たち)を心配して、市場を案内してくれた。
どうも、私が新聞局員ということは気がついていないようだ。何度か顔は合わせているはずだが、残念なことに新聞を作成しているときの私の形相といったら…(´・ω・`)
まだ洪水や噴火の影響があるかと思っていたが、町は非常に平穏な時間を取り戻していた。
豊かではないが、ひなびた暮らしがそこにあった。
真っ暗な、両脇や天井に靴や雑貨がぶら下げられた通路とも店舗ともつかない小路。
道路の両脇には、露天がびっしり軒を連ねている。
売り物は生活用品、生活雑貨、食料。港町なので、魚やえびも多い。熱帯のよくわからない果物もある。
車いすの人が財布を出すのに手間取っているので、とりあえず私が払おうと財布を出したとき、車いすの方の財布がようやく出てきた。
えびの代金を支払った後、私がまだ財布を持っているのを見た女将さんが、身振り手振りで「しまわなきゃダメ。盗られるよ!」と合図してきて、私はあわてて財布をしまった。
市場の人々は、概して優しかった。悪い人もいるのだろうが、ほとんどは善良な人だった。
車いすの方が、なにやら興味を示した果物に、伊藤千尋さんは「(゜-゜;)ウーン」という顔をしている。
考えてみれば、この世界中をめぐっている方の意見をきちんと聞くべきだったと後々思った。
買い物を終えると、伊藤千尋さんは「僕はもっと奥のほうへ行きます。さっきのタクシーに戻るよう言ってあるから、他へいかないでここで待っていたほうがいいですよ」と言って町の奥に去っていった。
さて、残された私は、改めて現状の危険さを思い知った。
グアテマラの公用語であるスペイン語はわからないし、まず、悪漢でも現れたらどうするのか。
車いすの方を護らねばならないから、とりあえず戦う必要がある。棒切れでも拾っておいたほうがいいのか。しかし、相手が銃を持っていたら、棒切れなど何の役に立つのか。
いやそれよりも、つい先日私はベネズエラでカバンを盗られかけた新聞局員にお説教めいたことを言った。
その私が、今現在、ある意味ベネズエラのスラムよりも危険な場所にいるのではないか。
私は心の中で身構えたが、やったことといえば車いすの方が日射病にならないように、木陰に移動させたことくらいだった。
ぼーっとしている日本人を見て、むしろ現地の人のほうがビックリして引いていく。
中には「どっから来たの??」と話しかける人もいたが、向こうはスペイン語、こっちは英語。通じているようで通じない。
別に騙そうとかお金を取ろうとかそういう心情で話しかけるのではなく、純粋に好奇心から話しかけているようだった。日本では、外国人に積極的に話しかけたりするだろうか?
木陰がある公園は、子どもの笑い声が止むことなく響き、市場の方角からは活気ある声が絶え間なく響く。
よかった。
私はふと、そう思った。
洪水の傷跡も、火山の噴火の爪あとも、もしかしたらこの町のどこかに残っているのかもしれない。
いや、この国のどこかに、確実に残っているだろう。
でも、この町の人々の明るさは、災害の色とは無縁だった。
子どもの声も、人々の笑顔も、そしてさっき、私に一生懸命忠告してくれたおばちゃんも、幸せそうに見えた。
背後の公園は、母の故郷にある神社の公園を思わせるほど平和だった。
車いすの方は散髪がしたいようで、理髪店らしきものもあったが何せ言葉がわからないので諦めてもらった。
そのままぼーっとしていると、一台のタクシーが停まって「プエルトケツァルの港に停まっている船の乗客か」と聞いてくる。
そうだというと「プエルトケツァルまで5ドルで乗せて行ってやる」という。
私はアラブの商人のことを思い出し「降りるときにプラス5ドルとか言うんじゃないでしょうな?」と聞いてみると、相手は「5ドル!大丈夫!車いすもたたんで乗せる!」と大サービスの模様。
伊藤千尋さんが頼んでくれたタクシーには悪いが、することも無いのでタクシーに乗ることにする。
件のタクシーは、マーティン・ブラザーズか誰か使うかもしれない。
タクシーは高級な車で、クーラーもかなり完備している。
どうも、途中で人を一人乗せて運ぶので、ついでにあなた方を運ぶのだ(だから安い!)ということらしい。
途中で乗せて運ぶという人も船の乗客で、ホテルのプールに遊びに行くらしい。
リゾートホテルも少なくないが、門の前には大きな銃を抱えた門番がいて、治安の悪さを思い知らされる。
港に着くと10ドルを要求されたので、5ドルといっただろうと抗議すると「一人5ドルだ」と返された。
…やられた@@;
先制攻撃をしたつもりだったが、詰めが甘かったようだ。
とはいえ、先制攻撃のおかげで10ドルで済んだと言えなくもないが、なんだか悔しい。
そういえば、カメラを持っていったのに、サン・ホセの町では一枚も撮影しなかった。
財布の一件で、カバンをそれ以降あけていなかったこともある。
だが不思議なことに、私の記憶の中にはサン・ホセの光景がはっきりと残っている。他の寄港地よりも強く。
船に戻り、餌のえびはおばちゃんが氷を入れてくれたので、後でということになり、とりあえず果物を肴になぜかお酒を飲むことに。
私はどうも1:1での飲みは不得手で、何を話していいかわからないし、帰り時がわからない。
果物はなんだか固く、味もあまりしない。そもそも、果物かどうかも怪しい。
この方はいつも港で釣りをしているのだが、ベネズエラでも釣りをしているときに、船のスクリューを交換しているのを見かけたという。
話をよくよく聞くと、どうも悪くなったのはスクリューではなく、スクリューシャフトのほうらしい。
そういえば、大西洋上で船の冷房が止まったとき、外は風がなかった。
つまりあの時、船は最低限の動力をたもった状態で漂流していたのだろう。
オセアニック号は、ダブリンでの遅れを取り戻すために全速力を超える速力で走り続け、足をくじいてしまわれたのだ。
そして、出来るだけの応急措置を施し、オセアニック号はくじいた足を引きずるように、なんとかベネズエラまで着いたのだろう。
だとしたら…漂流記にならなかったのは、本当に幸いだった。
だいぶ呑んでお開きになり、果物は私がほとんどガリガリとかじって終わった。
未だに何の果物かわからないが、そもそも腹の弱い私がそんなものを食して無事で済むはずもなく…
翌日、だいぶん情けない状況になったのは言うまでもない。
オセアニック号は午前7時、このプエルトケツァルに入港した。
プエルトは港、ケツァルは緑の羽根が美しい、グアテマラの国鳥である。
そんな美しい名前の港の割に、景色は殺風景である。
港の反対側にカメラを向けると、なるほどケツァルのように美しい中米の景色が広がる。
船の前には、ずらりというほどでもないがバスが並ぶ。
ほとんどが、古都アンティグアと世界遺産のティカル遺跡に向かうツアーのバスだ。
港の近くには、サン・ホセという港町がある。
この港が選ばれたのは、首都のグアテマラシティまで比較的近いからだろう。とすれば、アンティグアへの便も良い。
とはいえ、私はグアテマラのツアーをキャンセルしていた。小学校での交流ツアーだが、正直交流疲れもあった上に、疲労度がかなり高くなっていた。
昼食を食べ終え、船内をぶらついていると、釣りをしている車いすの人と会った。ギリシャのアテネで同道した人だ。
釣りの餌のエビが欲しいのだが、介助者なしに町へいけないので、一緒に行かないかと誘ってくる。
どちらかというと、交通費は出してくれるという文言に引かれ、私は承諾した。
港の前にいたタクシーに乗り込むと、乗り合いタクシーだそうで、マーティン・ブラザーズと伊藤千尋さんが乗り込んできた。タクシーとはいえ6人から8人乗りの大きなものだ。車いすも簡単に収納してくれた。
かなり体格が良いマーティン・ブラザーズは、運転手さんをあわせて6名の車内ではかなりきつそうだ。
車窓からは、熱帯の緑に彩られた景色が見える。
確か、ピースボートの号外で書いた記事によれば、熱帯性暴風雨「アガタ」の影響で集中豪雨となり、洪水被害が出ていたとのこと。その少し前には、パカヤ火山の噴火もあり、まさに未曾有の災害となっていた。
パカヤ火山の位置は、プエルトケツァルの上、つまり、サン・ホセの町からも近いことになる。
ごちゃごちゃした町の中心部、公園になっているところにタクシーは止まった。
伊藤千尋さんは勝手知ったる様子でひょこっと降りる。
マーティン・ブラザーズに至っては、仕事道具であるジャグリングの道具などを一度確かめると、もっと人がいそうな場所を目指して歩いていってしまった。
マーティン・ブラザーズは寄港地で暇があれば大道芸をし、小銭を稼いでいるのだとか。
さらには、日本まで船で一緒に来て、日本中を大道芸をしながら渡り歩きたいと言っているそうだ。
伊藤千尋さんが、やや頼りない残った二人組(私たち)を心配して、市場を案内してくれた。
どうも、私が新聞局員ということは気がついていないようだ。何度か顔は合わせているはずだが、残念なことに新聞を作成しているときの私の形相といったら…(´・ω・`)
まだ洪水や噴火の影響があるかと思っていたが、町は非常に平穏な時間を取り戻していた。
豊かではないが、ひなびた暮らしがそこにあった。
真っ暗な、両脇や天井に靴や雑貨がぶら下げられた通路とも店舗ともつかない小路。
道路の両脇には、露天がびっしり軒を連ねている。
売り物は生活用品、生活雑貨、食料。港町なので、魚やえびも多い。熱帯のよくわからない果物もある。
車いすの人が財布を出すのに手間取っているので、とりあえず私が払おうと財布を出したとき、車いすの方の財布がようやく出てきた。
えびの代金を支払った後、私がまだ財布を持っているのを見た女将さんが、身振り手振りで「しまわなきゃダメ。盗られるよ!」と合図してきて、私はあわてて財布をしまった。
市場の人々は、概して優しかった。悪い人もいるのだろうが、ほとんどは善良な人だった。
車いすの方が、なにやら興味を示した果物に、伊藤千尋さんは「(゜-゜;)ウーン」という顔をしている。
考えてみれば、この世界中をめぐっている方の意見をきちんと聞くべきだったと後々思った。
買い物を終えると、伊藤千尋さんは「僕はもっと奥のほうへ行きます。さっきのタクシーに戻るよう言ってあるから、他へいかないでここで待っていたほうがいいですよ」と言って町の奥に去っていった。
さて、残された私は、改めて現状の危険さを思い知った。
グアテマラの公用語であるスペイン語はわからないし、まず、悪漢でも現れたらどうするのか。
車いすの方を護らねばならないから、とりあえず戦う必要がある。棒切れでも拾っておいたほうがいいのか。しかし、相手が銃を持っていたら、棒切れなど何の役に立つのか。
いやそれよりも、つい先日私はベネズエラでカバンを盗られかけた新聞局員にお説教めいたことを言った。
その私が、今現在、ある意味ベネズエラのスラムよりも危険な場所にいるのではないか。
私は心の中で身構えたが、やったことといえば車いすの方が日射病にならないように、木陰に移動させたことくらいだった。
ぼーっとしている日本人を見て、むしろ現地の人のほうがビックリして引いていく。
中には「どっから来たの??」と話しかける人もいたが、向こうはスペイン語、こっちは英語。通じているようで通じない。
別に騙そうとかお金を取ろうとかそういう心情で話しかけるのではなく、純粋に好奇心から話しかけているようだった。日本では、外国人に積極的に話しかけたりするだろうか?
木陰がある公園は、子どもの笑い声が止むことなく響き、市場の方角からは活気ある声が絶え間なく響く。
よかった。
私はふと、そう思った。
洪水の傷跡も、火山の噴火の爪あとも、もしかしたらこの町のどこかに残っているのかもしれない。
いや、この国のどこかに、確実に残っているだろう。
でも、この町の人々の明るさは、災害の色とは無縁だった。
子どもの声も、人々の笑顔も、そしてさっき、私に一生懸命忠告してくれたおばちゃんも、幸せそうに見えた。
背後の公園は、母の故郷にある神社の公園を思わせるほど平和だった。
車いすの方は散髪がしたいようで、理髪店らしきものもあったが何せ言葉がわからないので諦めてもらった。
そのままぼーっとしていると、一台のタクシーが停まって「プエルトケツァルの港に停まっている船の乗客か」と聞いてくる。
そうだというと「プエルトケツァルまで5ドルで乗せて行ってやる」という。
私はアラブの商人のことを思い出し「降りるときにプラス5ドルとか言うんじゃないでしょうな?」と聞いてみると、相手は「5ドル!大丈夫!車いすもたたんで乗せる!」と大サービスの模様。
伊藤千尋さんが頼んでくれたタクシーには悪いが、することも無いのでタクシーに乗ることにする。
件のタクシーは、マーティン・ブラザーズか誰か使うかもしれない。
タクシーは高級な車で、クーラーもかなり完備している。
どうも、途中で人を一人乗せて運ぶので、ついでにあなた方を運ぶのだ(だから安い!)ということらしい。
途中で乗せて運ぶという人も船の乗客で、ホテルのプールに遊びに行くらしい。
リゾートホテルも少なくないが、門の前には大きな銃を抱えた門番がいて、治安の悪さを思い知らされる。
港に着くと10ドルを要求されたので、5ドルといっただろうと抗議すると「一人5ドルだ」と返された。
…やられた@@;
先制攻撃をしたつもりだったが、詰めが甘かったようだ。
とはいえ、先制攻撃のおかげで10ドルで済んだと言えなくもないが、なんだか悔しい。
そういえば、カメラを持っていったのに、サン・ホセの町では一枚も撮影しなかった。
財布の一件で、カバンをそれ以降あけていなかったこともある。
だが不思議なことに、私の記憶の中にはサン・ホセの光景がはっきりと残っている。他の寄港地よりも強く。
船に戻り、餌のえびはおばちゃんが氷を入れてくれたので、後でということになり、とりあえず果物を肴になぜかお酒を飲むことに。
私はどうも1:1での飲みは不得手で、何を話していいかわからないし、帰り時がわからない。
果物はなんだか固く、味もあまりしない。そもそも、果物かどうかも怪しい。
この方はいつも港で釣りをしているのだが、ベネズエラでも釣りをしているときに、船のスクリューを交換しているのを見かけたという。
話をよくよく聞くと、どうも悪くなったのはスクリューではなく、スクリューシャフトのほうらしい。
そういえば、大西洋上で船の冷房が止まったとき、外は風がなかった。
つまりあの時、船は最低限の動力をたもった状態で漂流していたのだろう。
オセアニック号は、ダブリンでの遅れを取り戻すために全速力を超える速力で走り続け、足をくじいてしまわれたのだ。
そして、出来るだけの応急措置を施し、オセアニック号はくじいた足を引きずるように、なんとかベネズエラまで着いたのだろう。
だとしたら…漂流記にならなかったのは、本当に幸いだった。
だいぶ呑んでお開きになり、果物は私がほとんどガリガリとかじって終わった。
未だに何の果物かわからないが、そもそも腹の弱い私がそんなものを食して無事で済むはずもなく…
翌日、だいぶん情けない状況になったのは言うまでもない。
コメント 0