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パナマとパナマ運河と通貨バルボアと [船上コラム・我思ふ]

 パナマの記事を書くことになっていた私だが、運河ネタ以外に何か無いだろうかと思ってたどり着いたのが、パナマの通貨バルボアと『偽の100ドル、50ドル札が多いので、店側で受け取り拒否される。だから使用を控えて欲しい』という、恐らくジャパングレイスからの要望を見たことで、主題は決まった。
 記事は運河ではなく、通貨にスポットを当てる。
 局長は通常の無難路線から外した記事には一応チェックを入れるが、趣旨がわかれば後は局員の好きに書かせてくれる。
 記事の趣旨は、乗客に100ドル札と50ドル札をパナマで使用させないこと。
 それに絡めて、パナマの歴史を軽く語る。
 パナマ運河については、ジャパングレイス側が何度か説明講座を開いており、もういいだろうと判断した。

 この記事を書くにあたり、役に立ったのはベネズエラのテレ・スールでの話と、伊藤千尋さんの著書「反米大陸」だ。
 反米大陸は局長から借り、一度全部読んでからパナマのところを二回読んでまとめた。

 双方の話をまとめてつなげると、今まで漠然と知っていたパナマの歴史と違うパナマが浮かび上がってきた。

 パナマといえば運河だが、そもそも中米に運河を作ろうという話は前々からあった。
 それは、マゼラン海峡をぐるりと回らねば太平洋に出られないという時代。戦略上としても運河は大切な役目を持っていた。
 この頃、運河の候補地は二つあった。
 一つが、バルボアという探検家が踏破したパナマ地峡。
 もう一つは、もう少し北にあるニカラグア湖を利用した運河だ。
 ニカラグアのルートは、アメリカに近いということで一時は決まりかけていたが、掘削区間があまりに多く、ニカラグア湖の広さは魅力であるものの、カリブ海から湖までの工事が困難であることは容易に想像できた。
 そこで、パナマ地峡に的を絞り、運河を作ることとなった。
 運河はスエズ運河を成功させた技師レセップスが始める。
 しかし、レセップスはパナマ運河とスエズ運河を同じに考えていた。
 スエズ運河と違い、パナマ地峡は高低差が激しい。スエズと同じ作り方で完成させるためには、かなり地面を掘り下げないといけない。
 加えて、熱帯特有の黄熱病やマラリアが蔓延し、手の付けられない状態になっていった。
 この時点でパナマ運河で働く労働者たちの死亡率も高くなっていた。
 レセップスは追い詰められ、社債を発行してしのごうとしたが、なぜか社債は全く売れず、レセップスの会社は倒産した。
 これは、アメリカがパナマ運河を手にするために、レセップスの会社はもう駄目だという噂をばらまいたとされている。どちらにしても、レセップスがスエズ式で運河建設を進めていたら、結局は運河自体が駄目になっていたかもしれない。
 その後、レセップスの新パナマ運河会社を(格安で)買い取ったのがアメリカだった。
 しかし、運河の利権に関して、アメリカはコロンビアとの折衝に失敗する。
 このままでは、運河は完全にアメリカのものにはなりえない。

 その頃、パナマという国はなく、パナマ独立を目指す一派がコロンビアからの独立を目指して独立運動を続けていた。
 ただ、その規模は東欧革命のパルチザンよりも規模は小さく、かつ弱弱しいものだった。
 そこにアメリカは目をつけ、武器などをどんどん援助した。
 そのおかげでパナマがコロンビアから独立するのは1903年。1914年にパナマ運河は開通する。
 レセップスが去った後、実はレセップスの会社で働いていたビュノーというフランス人技師がパナマに残っていた。
 ビュノーの何としてでも運河を完成させたいという思いとアメリカの思惑が結びつき、ビュノーはパナマの特命全権大使となる。お仕事はアメリカとの折衝というか、運河を作るために援助してくれるアメリカに有利になるように、パナマの独立運動と政治と運河建設を誘導することだった。
 このビュノーは、パナマ側への承認などを一切せず、アメリカに有利な数々の条約を締結している。
 例えば、パナマ運河の両岸5kmの永久租借権も、両岸5マイルに書き換えた。
 運河のもたらす莫大な利益に比べれば、安すぎる賃貸料。
 さらに、ビュノーがフランス人だったからだろうか、それとも技師であって政治家や官僚ではなかったからだろうか。このとき締結したあいまいすぎる条約が、後々紛争を引き起こす遠因ともなった。
 テレ・スールで聞いた話では、パナマの旗のデザインは、国家を樹立するために急いでデザインせねばならず、ビュノーの妻が一夜でデザインしたと聞いた。ただ、パナマ初代大統領アマドールの妻がデザインしたという説もある。
 このアマドールは、パナマ独立を目指す一派のリーダーで、パナマの初代大統領になっている。
 しかし、ビュノーが勝手に締結した様々な条約は全てがアマドールの諸行となり、アマドールは死ぬまで売国奴とパナマ国民に罵られた。ただ、テレ・スールでの話によれば、アマドールは無知すぎたリーダーだった故にだまされたのだとのこと。
 無知な者がリーダーとなると、結果的に苦しむのは国民とその子々孫々まで続く羽目になる。

 パナマ運河がアメリカからパナマの手に戻るのは、1999年。それまでに様々な事件があった。
 沖縄を見れば、何が起こったのかくらいは想像がつくだろう。
 微々たる賃貸料と、入ることが出来ないパナマ運河両岸。
 独立しても国は運河で分断され、主たる産業も資源もなかったパナマは貧困の一途をたどった。
 1999年より前に製作された世界地図は、パナマの真ん中が米国領になっている。見たことがある人も少なくないだろう。

 現在、パナマ運河はパナマの手に戻り、ようやくパナマは運河通行料という収入源を得ることが出来るようになった。

 聞いた話をまとめるとこんな感じだ。
 ここで話は通貨バルボアに戻る。
 最初のあたりで書いた通り、バルボアはパナマ地峡を探検した人物の名前だ。
 通貨にもその名前がついているが、バルボア(通貨のほう)自体はアメリカドルのデザインを変えたものに過ぎない。それも、コインだけだ。
 だから、パナマ国内ではドルが広く流通する。むしろ、デザインが似ているために、バルボアコインをパナマ国外でドルのつもりで使ってしまうほうが大変だ。
 だが、バルボアコインはお土産用として売られて(?)いる場合がほとんどで、主要なものはやはり米ドルとのこと。
 お札はドルそのままで、そのために高額ドル紙幣の偽札が多く出回ってしまっているそうだ。
 だから、スーパーやみやげ物店では、偽札検査などという面倒なことをせずに、受け取り拒否をする。
 新聞局やブッカーの若い子達は「そんな高額紙幣持ってない」ときっぱり。私も持っていない。
 ならば、いかにも持っていそうな年配層に訴えかける必要がある。
 そのため、記事は年配層の目を引きそうなものにした。

 しかし…
 「反米大陸」を返却し、そこにテレ・スールで聞いた話を重ね合わせると「中南米が反米主義になったのもわかるなぁ」と感じる。
 パナマ運河にはガトゥン湖という中間の湖があり、たくさんの島がある。
 テレ・スールで聞いた話では。ガトゥン湖のある場所はパナマ地峡に住む人々にとって暮らしやすい場所であり、多くの民族が住んでいた。
 だが、運河のためにチャグレス川という川をせき止めて、湖にした。ガトゥン湖は天然の湖ではなく、人造湖だ。
 湖に浮かぶ島は、全てこのあたりにあった山の頂だという。
 まさか住民ごと水に沈めたわけでもないだろうが、多くの住民が土地を追われたのは想像に難くない。
 昔のパナマ鉄道の路線も湖の底にある。
 スエズもそうだが、運河は様々な犠牲の上に成り立っている。
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