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この地より民主化の風が吹いた~ポーランド・グダンスク~ [寄港地]

 ポーランドのグダンスク(グダニスク)は、ドイツ語ではダンツィヒと表記され、私もなぜかダンツィヒの名で覚えていた都市である。おかげで、何度となくダンツィヒと口走ってしまい、話が合わないこともしばしばだった。
 バルト海に面する港町グダンスクは、近隣の都市グディニア、ソポトとあわせて三つ子都市と呼ばれることもあるようだ。
 中世ではドイツ騎士団に占拠されたこの地は、東欧革命の折にレフ・ワレサ氏率いる労働組合「連帯」が結成され、やがて東欧で大きくなる民主化のうねりのさきがけとなった場所でもある。
 私の大学での卒業論文は東欧革命とソ連型社会主義の崩壊についてであり、卒論で幾度となく目にしたこの「連帯」が始まった地を踏むことは、このクルーズで一番楽しみにしている場所でもあった。
 私が東欧革命に興味を持ったのは、テレビでベルリンの壁の崩壊のニュースを見たときだった。
 人々の歓喜の表情と壊された壁。壁の向こうの世界は一体何だったのか?
 滑り込んだ大学が国際関係だったので、私は卒論のテーマに東欧革命を選ぶことができた。
 民主化という風は東欧一帯を吹き荒れ、鉄のカーテンを開き、ベルリンの壁を壊し、やがてソ連型共産主義を崩壊に導いていく。
 その風が最初に吹きし地に、私は降り立つ。

 さて。
 オセアニック号は早朝、ポーランドのグダンスク・ヴェステルプラッテ港に着岸した。
 9時前にデッキに出てみると、あまり天気が良いとは言えないが、デンマークの時のような今にも降りそうな曇り空でもない。
 グダンスクは中心部では中世の歴史的な建造物も見ることができるが、港湾地帯にはクレーンや団地らしき建物が並び、「連帯」の始まりの地、労働者の町といった印象が強かった。
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 クレーンに混じって、古い灯台も見えた。
 オセアニック号が停泊している場所の近くに小高い丘があり、その一角には白い文字があった。
 後に、ここに書かれている言葉は、英語にすると「No more War」であることがわかった。
 丘の一番高い場所には、細長いオブジェがあった。
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 ポーランドでは、私は船内で急遽発表された交流ツアー「ポーランドで学ぶ『歴史を記録する方法』」というコースをとっていた。
 コースは、グダンスクの造船所や連帯博物館の見学とのことで、これは一人では行ききれない場所と判断してのツアー参加である。
 折しも当日は聖体節というキリスト教のお祭で、ポーランドでは祝日だった。よって、店はほぼ開いていないとのこと。この辺が必ずどこかが開いている日本とは違い、安息日なるものが徹底している…ような気もする。
 このツアーは事前に説明があり、旧市街地にあるアルトゥスの館なる場所で開かれるセレモニーに出席するため、あまりラフな格好ではダメだとのこと。
 この場所でおりづるプログラムの参加者たちと合流とのことで、恐らくは平和に関するセレモニーなのだろう。

 このツアーは、珍しくGETの先生方、韓国から来た学生と乗船客、果てにはスタッフさんも一般参加者としてこっそり(とはいかないが)加わっていた。さらに、グダニスクで下船する水先案内人のエッカート・フークスさんも加わっていた。
 ガイドさんは二人組で、中年の男性と若い男性。中年の男性がガイドすると、若い男性が英訳、それをピースボート側の通訳さんが日本語に直すといった具合だ。
 さらに、ツアー客として参加しているスタッフさんが、韓国語に訳して学生さんたちに話していた。
 しかし、私は韓国語がわからないので、四方山話なのか通訳なのかははっきりわからなかった。
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 バスに乗ると、多少の日程変更があるとのことだが、交流ツアーではこういったことは珍しくない。
 ピースボートでは現地のNPOとの交流を大事にし、受け入れ先団体(カウンターパートナー)となってピースボートのツアー客などの出迎えなどをしてくれる。
 ポーランドで私が知っている団体は「連帯」くらいなものだが、いきなりやってきたこの日本の団体を迎え入れた酔狂…もとい、寛大なるカウンターパートナーとはどんな団体でどんな行動をしているところなのやら。
「カウンターパートナーとなっていただいたのは、連帯…現ヨーロッパ連帯センター(ECS)です」
 れれれれれれれ「連帯」となっ?Σ@@;
 恐れ多くも歴史の一部である「連帯」が、なんでまたピースボートの受け入れ団体なんかを?
 しかも、「連帯」の職員さんが途中でガイドのために乗り込むとのこと。
 恐れ多くも歴史(以下略)。

 気持ちを落ち着けて。
 最初に訪れたのはオセアニック号が停泊する港の対岸にある、ヴェステルプラッテの戦跡だった。
 ヴェステルプラッテは第二次世界大戦の火蓋が切って落とされた地で、ヘンリク・スハルスキ少佐が率いる182名のポーランド防衛隊はドイツ軍に果敢に抵抗した。
 ナチス・ドイツへの『抵抗の象徴』となったこの場所と軍人たちへの敬意を込め、このヴェステルプラッテ港に入る船は皆、霧笛を五回鳴らすのだという。
 ただ、オセアニック号の入港は午前6時前後だったはずで、近隣に配慮して鳴らさなかったのか、敬意を表して鳴らしたのかは不明である。船室にいると、霧笛は聞こえないのである。寝ていればなおさらである。
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 これは予定表には書かれていないもので、ツアー客は見るところが増えるからいいのだろうが、通訳さんが大変である。
 一応、土産物を売る店があり、そこにたむろしていた人たちが、東洋人と白人が混じって歩く一団に好奇の視線を向けていた。
 この場所は公園のような感じになっていて、実際に使われた砲弾の模型なども置いてある。
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 さらには、砲弾の直撃を受けたボロボロの建物もあった。これは実際に、兵士たちがいた建物だったらしい。
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 中にも入ることが出来る。
 ひんやりした内部は、幽霊こそ出なかったものの、溶けて曲がった鉄筋、そこにぶら下がるコンクリート片が、なんとも言えない冷たい空気を放っていた。
 しばらく緩い坂を上がると、船のデッキから見えていた細長い建造物の近くまで来た。
 この建造物までは、螺旋状の道をぐるぐると登りつめて行かねばならない。途中には小さなバラに似た植物が植えられていて、これがまた名前が現地ガイドさんですらハッキリしないようで、通訳さんを悩ませていた。
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 間近で見た建造物は、写真の下部に移っている通訳さんと比較すればわかると思うが、相当に大きい。
 これは剣を柄まで埋め込んだモニュメントだそうで、剣を地に刺した、つまりもう戦争はしないという意味合いを含んでいるのだそうだ。
 この場所からは、オセアニック号もはっきりと見えていた。

 次の目的地は連帯博物館で、「連帯」が活動した記録や東欧革命当時のものなどが展示されているという。
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 線路と平行して走っていると、頻繁に電車を見かけるが三両程度の短いものだ。グダンスクの街にある建物は古そうなレンガ造りのものもあるが、やや煤けているものも少なくない。
 社会主義時代は景観や環境より産業を重んじる空気があり、従って酸性雨や煤塵による気管支炎患者が増えた。観光地として自然や景観が素晴らしい地は、汚さぬように配慮された。
 これは自然を愛するというより、東欧内部でしか観光が出来なかったが故に、観光地になりそうな場所は美しいまま残しておいただけに過ぎなかったようだ。

 そうこうしているうちに、連帯博物館に着いた。
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 ほとんど日本人は来ないというか、訪れた日本人は私たちが最初のようだ。
 入り口は狭く、博物館は地下に作られている。
 これは、そもそも「連帯」が文字通り地下で活動していたことに由来し、それを再現しているのだという。
 社会主義政権下では、民主化運動などは表立ってすることはできないので、地下や教会の地下墓地(カタコンベ)などで行われたこともあるという。
 表向きは宗教全廃のソ連型社会主義だが、いくつかの伝統ある教会は観光用として残され、その地下で民主化運動のための集会などが開かれたという。無論、聖職者がその件にかかわり、政治犯として殉職する例もあった。
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 「1980年8月の21の要求」が書かれた板も展示されていたが、ここにあるのはレプリカとのこと。
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 ストライキする労働者たちの写真のほかにも、当時の風刺画、公安警察に当たるミリシアの写真なども展示されている。
 円卓会議に使われた机、社会主義時代の商店も再現されていた。
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 最後の部屋には、ドミノ倒しのように倒れていった社会主義国が、赤いドミノになっていた。
 ここでは少し土産を買う時間があり、私はいくつかの土産物を買い、ピンバッジを早速つけてバスに乗り込んだ。
 すると、隣に若い女性が座った。彼女は「連帯」から派遣されている方で、見た目からすると東欧革命の時に生まれたか、革命後に生まれたかくらいの年齢だ。彼女に持参した和紙折り紙の折り鶴を手渡すととても喜び、開いていた地図を指差して、今どこにいるのかを詳しく教えてくれた。

 次は旧市街に行き、聖体節のパレードを見学する。
 聖体節は、キリスト教カトリック宗派のお祭で、なんでも最後の晩餐に由来するものらしい。キリスト教よりは仏教の方がやや詳しい身としてはさらによくわからないが、祝日になるくらいだから相当重要な祭なのだろう。
 白い服に身を包んだ子どもたちが行進し、花びらをまいていく。やがて、香炉を捧げ持つ一団が現れ、風変わりな香りのお香の煙を振りまいていく。
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 やがて、琥珀で作られた像が恭しく運ばれてくる。
 辺りにはピースボートのツアー客と自由行動している人たちが入り混じり、そこに普通の観光客も混じって大混乱である。
 辛うじてツアーリーダーの証であるオレンジのシャツを見つけると、全く別のツアーを率いるスタッフさんだったりと、ピースボート的にはさらに混乱を極めていた。

 忙しく旧市街から離れ、再び連帯博物館の近くまで行く。
 連帯博物館はグダンスク造船所の近くにあり、造船所の正門の前には「犠牲になった造船所労働者の記念碑」が重々しくそびえたっていた。
 碑の根元には、各国から贈られたレリーフが展示されている。
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 この記念碑は、1970年にグダンスク造船所で起きたストライキの際、雇用者側の呼びかけに応じて造船所内に戻り、殺されてしまった労働者を悼むために作られたという。三つの錨と三つの十字架が組み合わされた記念碑は、重く冷たく、そしてなぜか物悲しい。

 その後、バスでグダンスク造船所内に向かう。
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 レフ・ワレサが仕事をしていたという、ワークショップが残されていた。

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 造船所の中は静かで、ここから民主化の風が吹いたとは思えないほど穏やかな空気が流れている。
 もっとも、グダンスク造船所は90年代半ばに倒産の憂き目にあっており、色々あって復活したものの、造船の発注のほとんどは韓国などにうつってしまい、再び廃業の兆しが見えているという。別に悪くはないのだが、韓国の人たちがバツの悪そうな顔を見合わせていた。
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 社宅らしき建物からは、人の気配がないように見えて、時折窓から顔がのぞく。
 このグダンスク造船所内で昼食を取るという。
 造船所の建物の一部は芸術学校となっており、カフェのような場所もある。
 食事を取る場所は古い一室で、天井からの水漏れもあったが、そこもまた社会主義時代のテイストを残しているともいえる。ビールは6ズロチで、かなり大きなグラスで出てきた。
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 昼食はポーランドの伝統料理とかで、ニシンの酢漬け、クランベリーソース、パン、にんじんのスープ、餃子のような料理があった。ポーランドでは餃子のような料理をピエロギというそうだが、このときの名前は少し違っていたので、別の料理なのかもしれない。
 にんじんスープは非常に口にあわず、それでも残すわけにはいかぬと気力で全部食べた。最後にいちごを乗せたケーキが出て、これは非常に美味しかった。
 食後に少し建物内を回る。
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 美術学校として使っている部屋は綺麗に塗装されているが、そのほかの場所はぼろぼろのままになっている。
 外に出ると、ポーランドの国営テレビ局が、わざわざ東の果ての島国日本から来た一団を取材しにきていた。ツアーリーダーで、地球大学の担当でもあるスタッフさんがテレビ局の質問などに答えているのが見えた。

 再び旧市街へ向かう。
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 どうも、日本とかかわりのあるオブジェのようだが、詳しい話は忘れてしまった。
 古い城壁を見ながら進み、旧市街へ入る。
 この中にある、アルトゥスの館という場所でセレモニーが開かれるという。この館には、滅多に入ることができないらしい。
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 セレモニーまで少し時間があるので、それまで自由時間となった。
 コペルニクスに関連するものが展示されている店があるが、グダニスク出身の天文学者ヨハネス・ヘベリウスに関するものは置いてないようである。
 やはり「あの星並びはトカゲにしか見えない!」と言ってとかげ座を作ったり、「山猫のような視力の持ち主だけがこの星座を見つけられる!」と言ってやまねこ座を作ったあたりが、イマイチな知名度なのだろうか?
 昼食でたっぷりビールを飲んでしまったせいか、途中でトイレに行きたくなり観光案内所へ行ってみたが、公衆トイレは随分奥にあるらしい。集合の時間を考えると、間に合いそうにない。アルトゥスの館にはトイレがあるそうなので、そこまで我慢しておくことにする。
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 ネプチューンの噴水の近くでソフトクリームをかじっていれば、たむろしているハトが一斉にこちらを見る。どうもコーンのおこぼれを狙っているようだ。
 お祭なので、出店や土産物屋がアチコチに出ていた。現地通貨のズロチより、ユーロ払いのほうがやや安く感じる。しかし、ユーロはどこの店でも通じるわけではないので注意が必要だ。
 有名な土産物である琥珀の店も出ていたが、とにかく高い。とはいえ、デンマークなどよりは安いようだ。

 時間になったので、アルトゥスの館に向かい、中に入るとトイレに皆ずらりと並ぶ。
 やや時間がかかったが、何とかセレモニーギリギリで中に入ることが出来た。
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 船の模型に点火すると、花火のような砲撃音がする。しかし、天井からつるされた小さな船に点火するのは大変なようで、中々火がつかなかった。
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 惑星と徳行が擬人化されて描かれているとされる壁暖炉は、世界最大の大きさだとのこと。
 セレモニーは、グダンスク第二次世界大戦博物館建設にあたってのものらしい。おりづるプロジェクトが中心で、私たちのツアーはほんのオマケのようなものである。
 グダンスク市長が出席して熱弁をふるうので、またフランスの時のような長丁場かと身構えていたら、まぁそれほどでもなかった。再び国営テレビがやってきていて、その模様をカメラに収めている。
 グダンスクの記念品(ステッカーやゴム製の腕輪など)をもらい、連帯の資料やネックストラップが入った紙袋をもらい、個人的にはオミヤゲ品はこれだけで充分であった。

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 アルトゥスの館の前で「連帯」の職員さんと別れ、混雑する旧市街を抜けてバスへ向かう。緑の門と呼ばれる建造物の前ではコンサートも開かれていた。緑の門には、レフ・ワレサ氏の事務所も入っているのだという。
 途中でビラを手渡されたが、これはどうもビアホールかレストランのような店のチラシだったようだ。
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 橋を渡ってバスに戻ると、ここでガイドさん二名ともお別れである。

 クルーズ全体を通じて、ここまで有意義なツアーは、観光・交流含めてこれが最高のものだった。
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mitu-taka

ワレサさんが連帯の長として出てきて有名になった時、
それより3,4年前のチェコスロバキアの民主化を始めたドプチェク書記長のようにソ連の軍事介入で失脚するのか、と思った
ものです。

そのうち大統領にもなってしまうのですから、何がソ連やポーランドに起きていたのでしょうか?

そのころから段々ソ連の経済力も落ちてきていたのでしょうか?
by mitu-taka (2012-07-25 14:24) 

rastaban

mitu-takaさん、こんばんは。

チェコスロバキアというと、つい最近亡くなられたハヴェル元大統領を思い出します。
劇作家から初代の大統領になられた方ですが、チェコとスロバキアの分離にも立ち会うことになり、それは望んでいないことだったとの話を聞いたことがあります。
ドプチェク氏の件は、プラハの春ですね。
あの時代は、まだソ連が元気でした。
そして、力でねじ伏せられたことで、民主化運動は文字通り地下に潜り、秘密警察やKGBとの静かな、そして粛清という弾圧との戦いとなったのです。
連帯も同じ意味で地下活動を続けていました。
そのため、連帯博物館は地下にあるとのことです。

ソ連に関しては、ゴルバチョフ氏が書記長となり、グラスノスチとペレストロイカという改革を始めました。
ゴルバチョフ氏は特権階級(ノーメンクラトゥーラ)と呼ばれる官僚たちが、ソ連という組織の中間で甘い汁を吸っていることをやめさせようと、グラスノスチとペレストロイカを強行しました。
しかし、それは結果的にソ連の弱みを一挙に噴出させ、同時に各国にいた古い社会主義国トップたちが死亡、もしくは老齢で力を持たなくなり、若い世代と交代しました。
ハンガリーとオーストリアの国境での人民の流出からベルリンの壁の崩壊、そしてソ連崩壊に至るまで、歴史的に見れば非常にわずかな時間だったと思います。

ソ連には、そもそも末期には強い経済力がなかったと思われます。
機械も昔から変わらないままで、西側からは半世紀以上遅れていました。
唯一、進化しないことで安全性を保てたのは、宇宙ロケットソユーズだとのことで、なにが幸いするか本当にわかりません。

ただ、この記事で私が一人興奮していますが、何かしら下地がわかる人でなkれば、サッパリわからないのではないかと反省しております。
by rastaban (2012-07-26 00:01) 

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